緑区 根小屋 富士塚 [相模原市緑区の神社めぐり]
こちらの富士塚は、首塚から富士塚になった場所。
富士塚
津久井町根小屋富士塚1918番地
この塚は地元の人は富士の森と言う、新編相模風土記稿に「首塚」として「寺領(攻雲寺)南金原ニアリ。天正18年(1590)平岩主税(徳川群の武将)津久井城ヲ攻落トシ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ト云フ。塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽エユ」とある。
天保6年(1835)3月八王子千人隊十人頭、塩野適斎が幕府の命により地編編纂のため、この地を訪れた時に「首塚」と題し作詩し築井県記紀行詩集に収められている。
首塚何年何世人 言斯津久井城臣
(首塚はいずれの年 いずれ世の人と 言うこれ津久井城の臣なりと)
只今唯有桜花発 寂々寥々不耐春
(只今唯桜花のひらくあり せきせきりょうりょう春に耐えず)
塚上に浅間大神(明治23年9月建立、越後国、浜塚勝)、富士浅間大神(明治23年寅6月1日、開眼師岩崎奉健、根小屋郷中)、妙法金人水神(年代不明)三基の石仏がある。江戸期から明治にかけ富士塚を富士山を神格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士講が作られ江戸八百八講と呼ばれる程になったといわれ、富士山に登山できない者のために富士山をまねた富士塚が各地につくられた、この塚も浅間大神の石仏がある事から古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士塚と呼ばれる事になったと考えられる。
塚の面積280㎡、昭和37年6月27日より大蔵省(財務省)の管理地となる。
平成3年3月1日
津久井町教育委員会
と、看板には記されています。
何度もこの辺りには来ていましたが、まさかこんな歴史があるとは思ってもみませんでした。
地元の史跡もちょくちょく更新してみようかと思います。
富士塚
津久井町根小屋富士塚1918番地
この塚は地元の人は富士の森と言う、新編相模風土記稿に「首塚」として「寺領(攻雲寺)南金原ニアリ。天正18年(1590)平岩主税(徳川群の武将)津久井城ヲ攻落トシ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ト云フ。塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽エユ」とある。
天保6年(1835)3月八王子千人隊十人頭、塩野適斎が幕府の命により地編編纂のため、この地を訪れた時に「首塚」と題し作詩し築井県記紀行詩集に収められている。
首塚何年何世人 言斯津久井城臣
(首塚はいずれの年 いずれ世の人と 言うこれ津久井城の臣なりと)
只今唯有桜花発 寂々寥々不耐春
(只今唯桜花のひらくあり せきせきりょうりょう春に耐えず)
塚上に浅間大神(明治23年9月建立、越後国、浜塚勝)、富士浅間大神(明治23年寅6月1日、開眼師岩崎奉健、根小屋郷中)、妙法金人水神(年代不明)三基の石仏がある。江戸期から明治にかけ富士塚を富士山を神格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士講が作られ江戸八百八講と呼ばれる程になったといわれ、富士山に登山できない者のために富士山をまねた富士塚が各地につくられた、この塚も浅間大神の石仏がある事から古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士塚と呼ばれる事になったと考えられる。
塚の面積280㎡、昭和37年6月27日より大蔵省(財務省)の管理地となる。
平成3年3月1日
津久井町教育委員会
と、看板には記されています。
何度もこの辺りには来ていましたが、まさかこんな歴史があるとは思ってもみませんでした。
地元の史跡もちょくちょく更新してみようかと思います。
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